店主は自らロバに荷車を引かせてパンを売歩き、実妹の喜代子さんが店を切り盛り。末妹の八重子さんも学校から帰ると店の手伝いをする。まさに一家一丸となってロバパンの基礎の基礎を作り上げていった。
時代は満州事変から第二次世界大戦へと大きく揺れ動く情勢の中、アイディアを駆使して、欧州風の菓子「パオ」や「鉄かぶと」といったチョコレートまんじゅうを発売し、好評であった。
食料統制の中、砂糖や小麦粉、ジャム等を確保し、パンの生産を続けてきたが、昭和18年3月、大東亜戦争(太平洋戦争)による企業整備のため、一時閉店を余儀なくされる。
その戦争は昭和20年8月15日まで続くことになる。
復活期(再開、法人化から旧第二工場建設まで)
昭和23年6月、ロバパンは復活した。委託加工パンに角食パンを製造して好評。
昭和24年4月、札幌市南1条西4丁目にロバパン四丁目売店を開業。
さらに昭和25年4月1日、それまでのロバパン石上商店を「株式会社ロバパン」と改組。
社長 石上寿夫、社員15名、資本金50万円でのスタート。運搬車はダットサン1台であった。
所在地は札幌市大通り西9丁目3番地。
翌26年8月20日には第二工場竣工(今となっては旧第二工場であるが)、ここで作業が開始された。 社員も新たに25名を採用し、製造体制も24時間稼働を整えた。
札幌市北3条東4丁目、ビール会社前の旧第二工場。 右手奥のレンガ作りの三階建ての地下が石炭置き場、一階が材料倉庫、二階が洋菓子、三階が和菓子の作業場であった。
基礎期(再開、ビール会社前工場から白石工場建設まで)
昭和31年4月札幌菓子祭にて、ロバの模型を乗せて 市内をパレード
昭和26年8月20日、ビール会社前第二工場が完成し、稼働を始めた。
翌27年5月10日には、株式会社ロバパン北海道技能者養成所を開所、人材の育成にも力を入れる。
同年10月1日、工場売店を開店、翌年には札幌駅ステーションデパート売店、4丁目十字街売店などを開店し、着実に市民の間にも浸透することになる。
また、昭和29年3月2日、第1回全国洋菓子大品評会で大臣賞を受賞、続いて5月24日、第13回全国菓子大博覧会で金賞牌を受賞するなど、その味と技術は全国に認められるところとなる。
ロバパン十字街売店夜景
その後も札幌中心街に店舗を開店し、しっかりと足下を固めて行く。
昭和30年10月5日、ロバパン十字街売店開店。この店舗は川喜多氏の設計により、東京以北第一の近代店舗として注目を集めた。
同年12月17日、狸小路売店を、36年6月14日には北大病院前にロバパン北売店を開店。8月には喫茶室を開設。
11月には狸小路売店内にパーラーを開設、その近代的センスと大衆性が多くの市民に愛される存在となった。